北田康広の幼少期の写真
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北田康広公式サイトです。

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奇跡体験!アンビリバボーAnbiripage

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奇跡体験!アンビリバボー
 

Short ver. (短く編集したものを掲載しています。)


   

全盲のピアニスト

 ピアニスト、北田康広。彼は日本でも数少ない全盲のクラシック音楽家だ。彼はなぜピアニストを目指したのか、そこには我々の想像を遥かに超えた親と子の愛の物語があった。
 1965年、北田は徳島県徳島市に生まれた。彼は子供の頃から極端に視力が弱かった。未熟児で生まれてすぐに保育器に入れられたのだが、その時の酸素濃度が適切でなかったため網膜に傷がつき、未熟児網膜症になってしまったのだ。
 視力はかなり弱かったものの、音楽に対する才能はその頃から目を見張るものがあった。身の回りのあらゆるものを楽器として使い、音の違いなどを楽しんでいた。
アンビリ写真  だが6歳の時、思わぬ悲劇が起こった。治療の際にミスが起こり全盲になってしまったのだ。突然光のない世界に放り出された北田。だが父親はそんな息子につらくあたった。錦鯉の養殖をしていた父親は仕事人間で、全盲の北田を足手まといに思っていたのだ。
 北田を支えたのは母・多恵だった。音楽好きだった北田のために知人から古いオルガンを譲り受けた。北田は母に喜んでもらいたくて夢中で練習を重ねた。音楽と母が、彼の支えとなっていったのだ。
 だが、ハンデを抱えた息子をめぐり両親の諍いは絶えず、北田が10歳の時、両親の離婚が成立した。ところが父は多恵を追い出すだけではなく、嫌がらせから北田の親権を主張した。結局北田は経済力でまさる父に引き取られることになった。
 慣れない化粧品販売で細々と生計を立てる多恵は、息子に会いたい気持ちでいっぱいだった。ところがある日、北田は母親に会いたい一心で学校を抜け出し、一度も来たことのない道を手探りで多恵の元にやってきたのだ。足や手を擦りむきながら、途中でぶつかったという焼き芋屋さんにもらった焼き芋を手に持っていた。
 久しぶりの再会。北田は「ずっとここにいてええ?おかあちゃんと一緒がええ。」と多恵に言った。だがその直後、父の依頼でやってきたという盲学校の先生に北田は連れ帰られてしまう。二人は再び引き離されてしまった。
 母と暮らす希望が潰えて、北田に残されたのは音楽だけだった。いつしか、音楽家になったらきっと母と一緒に暮らせると信じるようになり、さらに音楽に打ち込むようになった。
アンビリ写真  徳島県立盲学校(小学校)では音楽室に入り浸り、ギター、トランペット、ピアノを独学でマスターしていった。さらに中学になると、音楽の教師に代わって文化祭の課題曲のアレンジを一人でこなすほどの活躍だった。
 だがあの日以来、母に会うことはなく年に数回の電話だけがつながりだった。実は多恵は、長い人生でいずれ一人で生きていかなくてはならない息子が自立するため、それまでは決して会うまいと心に決めていた。息子を愛するがゆえの決断だった。
 北田も立派な音楽家になるまでは母に会うまいと考えていた。だが、音楽家になりたいという北田の夢を真剣に受け止めてくれる先生は学校にいなかった。当時は視覚障碍者は鍼灸やマッサージの仕事をするのが常識という時代だった。だが、鍼灸の学校に進むということは母と一緒に暮らす夢から遠ざかることだった。
 高校時代、毎日のようにピアノを熱心に練習する北田に、転入してきたばかりの吉村孝雄先生が声をかけた。何かと相談に乗ってくれる吉村先生に、北田は胸の内を明かした。音楽家になることは無理、と思い始めていた北田に、吉村先生は「簡単に夢を諦めるな」と夢に突き進むように強く励ましてくれたのだ。
 それは見事に成果をあげた。「第31回全国盲学生音楽コンクール」で第一位を受賞し、高校を卒業すると反対する父を説得して上京し、盲学校としては全国で唯一の筑波大学付属盲学校音楽科に入学した。
 一日8時間ピアノの練習をし、それが終わると点字による音楽理論の勉強をするという、音楽漬けの生活を送った。音楽大学合格を目標に、そんな生活を2年間続けた。
 1985年2月、ついに名門武蔵野音楽大学の入学テストの日を迎えた。同じ年頃とはいえ、ライバルは幼い頃から専門的に音楽を学んだ健常者ばかり。ハンディを持ち、さらに独学の時期が長かった北田は受け入れられるのか。
アンビリ写真  母への思いを鍵盤にぶつけた北田。テストの演奏が終わると、入学試験の最中にも関わらず審査員が飛び出して来て北田に握手を求めた。まったく異例のことだった。結果は1000人の受験者の中でトップの成績で合格だった。
 北田の大学生活が始まった。音楽大学を卒業しても、音楽家になれる人は一握りもいない。まだスタートラインに立ったにすぎないのだ。彼は気持ちを引き締め、クラスメートの誰よりも熱心に音楽に取り組んだ。そんな北田を影から支えたのはやはり母の多恵だった。音楽大学への入学を誰よりも喜び、下宿先には心のこもった荷物をたびたび送っていた。
 大学生活がはじまって間もなく、北田は人生を変える女性に出会う。クラスメートの川村陽子だ。彼女は後に北田の妻となる女性だ。
 大学生活がはじまって3年、休みなく働く多恵のもとに、陽子さんの代筆した手紙が届いた。音楽家としての将来が試される、北田のリサイタルが開かれることを知らせる手紙だった。
 リサイタル当日、北田は今までの音楽人生のすべてをかけて演奏した。母と暮らす夢がかかっていた。リサイタルは大成功だった。彼は音楽家への、そして自立への道を自ら切り開いたのだ。
 多恵は息子の自立を確信し、ついに徳島を出る決心をした。もう会うことを我慢しなくてよいのだ。
 所沢に住む北田の家へやってきた多恵。15年前に引き離されてから、ようやく二人の一緒に暮らす夢が叶ったのだ。二人はただただ涙を流して再会を喜んだ。
アンビリ写真  その後北田は陽子さんと結婚し、現在は二人三脚で全国各地を周りコンサートを開いている。「喜びと生きる勇気をあなたに」をテーマに開かれるコンサートはピアノ演奏だけではなく歌やトークを加えた独特のスタイルで、誰もが楽しめるクラシックコンサートとして評判になっていった。ピアノとバリトン歌手の両方をこなす北田は、クラシック界でも珍しい存在だ。
 昨年秋には、彼のピアノと歌が収録されたCD「ことりがそらを」が発売されることになり収録が行われた。数々の苦難、そして盲目というハンディを乗り越えて音楽家として羽ばたいている北田康広。母と妻、そして周囲の多くの人に支えられながら、北田はこれからも新たな感動を与えてくれるに違いない。